3月度座談会御書

3月度座談会御書 阿仏房御書(2010年)末法に入つて法華経を持つ男女のすがた

阿仏房御書は、2010年3月度座談会拝読御書です。座談会に臨むにあたり、以下のように講義内容をまとめましたので掲載します。

阿仏房御書の背景と大意

阿仏房御書は、日蓮大聖人が佐渡の門下である阿仏房に与えられたお手紙です。阿仏房といえば、妻の千日尼と共に、死罪にも等しい、佐渡流罪の身の大聖人を徹してお護りした門下として有名です。本抄では、その阿仏房が法華経に説かれる宝塔についてお尋ねしたことに対して答えられています。

阿仏房御書の講義

法華経では、今の大きさの単位で言うと、地球の直径の半分ないしは3分の1程もある宝塔(多宝の塔と言います)が大地から湧き出たと説かれています。そして、その宝塔は金銀など7種類の宝で飾られ、素晴らしい香りも放つ荘厳なものであるといいます。

その宝塔がいったい何を意味するのか?阿仏房のその疑問に答えられたのが本抄であり、今回の拝読範囲となります。

そして、「末法に於いて法華経を持つ男女」のその姿・存在自体が宝塔に他ならないと仰せです。すなわち、釈尊の仏法が功力を失った末法においては、御本尊を信受して受持し抜くならば、凡夫である私たちの生命自体が宝塔であってそれ以外のなにものでもないと言われています。

さらに、自身の生命を宝塔として現れすには、男女の差別・身分の上下・社会的地位など全く問題ではなく、ただ、南無妙法蓮華経を自行化他にわたって唱えることであり、その人こそ、宝塔であり多宝如来であると仰せになっています。そして、虚空に浮かぶ宝塔の荘厳な姿は南無妙法蓮華経に他ならないと示されています。

すなわち、妙法に生きる人生は限りなく尊いということであります。

池田先生は、『宝塔を表すとは、何ものにも壊されない、何ものにも侵されない、最も尊厳な自分自身の生命を確立することであり、最大に光り輝かせていくことである』また、『宝塔とは仏の身であって、仏の身には「全宇宙の宝」が納まっている』とも言われています。

今回、自分自身の「就業の体験」を振り返って思うことがあります。蔵の宝となる、わずかな蓄えも無く、世間から評価される能力・身の宝も無く、心の宝を積む信心に立つしか無かったことが、最も良い方向に繋がったと確信します。

そして、「心の宝」を積むことは、「全宇宙の宝」が納まる仏の身を現すことに違いなく、我が身に確かに具わる仏の生命の現れが、今回の体験となったのだと確信しています。我が身にある仏の生命は万人にもあります。本年、80周年の戦いも、法戦という形にせよ、万人の心に「幸福の種を蒔くのだという信心の一念」で臨みきって参りましょう。以上。

阿仏房御書 3月度拝読御書の範囲

末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。(御書全集1304ページ5行目~8行目)

阿仏房御書 /或文永九年三月十三日 五十一歳御作(全文)

与阿仏房 御文委く披見いたし候い了んぬ、抑宝塔の御供養の物・銭一貫文・白米・しなじなをくり物たしかに・うけとり候い了んぬ、此の趣御本尊・法華経にも・ねんごろに申し上げ候・御心やすくおぼしめし候へ。
一御文に云く多宝如来・涌現の宝塔・何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔を・ことわるに天台大師文句の八に釈し給いし時・証前起後の二重の宝塔あり、証前は迹門・起後は本門なり或は又閉塔は迹門・開塔は本門・是れ即ち境智の二法なりしげきゆへに・これををく、所詮・三周の声聞・法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし、浄行菩薩うまれかわり給いてや・日蓮を御とふらい給うか不思議なり不思議なり、此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ、別の故はあるべからず・あるべからず、宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

誰の生命も限りなく尊い存在です。日蓮大聖人の仏法は、その尊い生命を最高に輝かせるためにあるということを確認します